どうせ死ぬんなら、盛大に死にたい。まだ二十歳くらいで、大した悪事もやっていないんだから、あと三、四十年社会にお世話になる代わりに、一どきに社会に迷惑をかけてやりたい。高級旅館に泊まって、ダイナマイト自殺でもやらかして折角建てたばかりの新館をわれわれもろとも爆破してやるのもわるくない。
……こう考えるうちに、二人の考え方はだんだん他人のほうへ社会のほうへ向いてくる。ただの心中や自殺が、だんだん社会への呼びかけに変ってくる。つまり悪事に近くなって来るのです。
「僕たちが愛読してやっているあの小説家のツラを、死ぬ前に一度見に行ってやろう」
「死ぬ前に店の金をごまかして、百万がとこ豪勢に使ってやろう」
「死ぬ前にあのにくい果物屋に火をつけてやろう」
「死ぬときには道づれに、五、六人殺してから死んでやろう」
こうして自分の死を最高の自己弁護の楯に使って、他人に迷惑をできるだけかけて死んでやれと思い出すと、自殺というものはもともと一種の自己目的の筈ですから、自殺の意義がだんだんうすれて来て、それが途方もない大きな対社会的行為になって来て、考えるだけでオックウになってしまう。
(中略)
だから、どうせ死ぬことを考えるなら威勢のいい死に方を考えなさい。できるだけ人に迷惑をかけて派手にやるつもりになりなさい。これが私の自殺防止法であります。
三島由紀夫 「不道徳教育講座」 角川文庫
この上なく威勢のいい自殺を決行してしまったご本人が語る「私の自殺防止法」である。
この人の自殺を止めるに、何が必要だったのかは、私には分からない。
道徳とか不道徳とかいう領域のことではない、まして「自己目的」でも、「対社会的行為」に向かう自分を妄想することで得られる自己の肥大感でもない、もっと別次元のものが、足りてなかったのだろうとは想像する。
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